第一次世界大戦開戦から終戦、そして第二次世界大戦勃発の原因までの流れをわかりやすく説明します!

こんにちは、今回は主に第二次世界大戦が起こってしまった原因を日本の視点ではなく世界の視点から説明したいと思います。大戦の流れも簡単にわかります!

それではまず初めにこの図を頭に入れてください!流れを捉えやすくするためです。

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覚えましたかね?それでは解説に行きたいと思います。

まず結論から言いますと、第二次世界大戦が起こってしまった原因は第一次世界大戦後の条約において敗戦国ドイツに対する厳しすぎる不平等な条約を締結させたことが原因です。

それでは、第一次世界大戦開戦から見ていきましょう。

第一次世界大戦が終わるまでは簡単に書きたいと思います。

<第一次世界大戦開戦前>

1882年:三国同盟 ドイツ・オーストリア・イタリア →同盟国

1907年:三国協商 イギリス・フランス・ロシア →連合国

(イタリアは1915年に同盟国側に立った)

1914年:サラエボ事件 これは、オーストリアとセルビアがある領地をめぐって対立していたがオーストリアがその地(ボスニア)を併合したことで、セルビア人の青年が怒りオーストリア皇太子を暗殺した事件。→第一次世界大戦勃発の原因

すると、オーストリアはセルビアに宣戦布告。

ロシアはオーストリアに総動員令を出す。

ドイツがロシアに宣戦布告。

フランスがドイツに宣戦布告。

ドイツのベルギー進撃に対してイギリスがドイツに宣戦布告。

さっきの図の通りですね!

ちなみに日本は日英同盟を理由にドイツに宣戦布告。

アメリカは1917年のドイツの無制限潜水艦作戦によって自国の船員が被害を受けたことでドイツに宣戦布告をし参戦。

1918年 休戦協定により第一次世界大戦 終戦

<第一次世界大戦後>

1919年:パリ講和会議 ヴェルサイユ条約 

ドイツに対して厳しい条約だった。賠償金・軍備制限・領土削減

賠償金に関して1921年の賠償委員会により1320億マルクの賠償額に決まった。しかし、戦後ドイツは苦しく労働者に賃金を払うため増刷を頻繁に行っていたそれによりハイパーインフレが起こり賠償金を払うことができなかった。フランスは違反とみなして、1923年フランス軍・ベルギー軍によってドイツのルール地方を占領した。最終的な賠償金額は1929年のヤング案の58年間で約358億マルクで決まった。

1925年:ロカルノ条約

独・英・仏・伊・ベルギーの五か国の多国間条約で集団安全保障。国境に関する取り決め、ラインラント軍備禁止

これはドイツが率先して結んだ条約でありドイツの国際協調がみられる。

<世界的な緊張緩和>

1926年:ドイツ国連加盟

1928年:パリ協定 不戦条約

戦争を違法化したが、防衛戦争は認められ、裁定機関の不在・制裁規定の不在など問題あり。

<崩壊>

1929年:世界恐慌

アメリカのニューディール政策、イギリスのブロック経済など各国の囲い込み政策により国際協調体制の崩壊

1933年:ドイツのヒトラーを首相とするナチス党政権発足

ドイツは経済的にきつかったところに世界恐慌が起こった。そこでナチ党(社会主義ドイツ労働者党)の失業政策など国民の最も関心のある政策であったため、ナチ党は急速に勢力を伸ばした。

1933年:ドイツ国連脱退

1934年:相互不可侵条約をポーランドと結ぶ

このとき、ポーランドはドイツに真っ先に狙われると考えられていた。それは、ドイツとポーランドの国境線が不自然だったからである。ポーランド回廊問題と呼ばれる。しかしその時のドイツには軍事力がなかったため、一旦条約を結び後で侵略しようと考えていた。

1935年:ドイツ再軍備宣言

これによる英・仏・伊の対策は

・ストレーザ戦線を敷く →西側への拡大阻止

・オーストリアの独立を保全する →東側への拡大阻止

これはロカルノ条約が有効であるという確認とドイツの拡大の阻止を目的とする。

その後、英独海軍協定が結ばれ、ストレーザ戦線は崩壊した。

1936年:ドイツのラインラント進駐

ドイツはロカルノ条約のラインラント非武装条項を破る

<オーストリア併合>

シュシュニック・ヒトラー会談によりヒトラーは

・ナチス政治犯の釈放

・ザイス・インクヴァルトの内相入閣

・経済の同調

をオーストリアに要求。

イタリアのムッソリーニの仲裁により受け入れられる。さらに追加で蔵相ポストも要求される。

ザイス・インクヴァルトはオーストリアの首相に就任しドイツ軍を派遣しオーストリア併合。

<チェコ・スロヴァキア解体>

ドイツはヴェルサイユ条約によりチェコ・スロヴァキアに移ったドイツ人も多く住むズデーデン地方をチェンバレン・ヒトラー会談で割譲を要求。割譲されなければ軍隊を派遣するとした。その後、ムッソリーニの仲介によりミュンヘン協定でズデーデン地方の即時割譲が決まる。また、チェコ・ソ連間の安全保障も破棄された。さらにヒトラーは領土的野心を持たないことを確約する。しかしドイツはズデーデン地方の割譲だけでなく全域を狙っていることを隠していた。

これらのドイツの行動を英・仏・伊は傍観していた。これはイギリスの伝統的政策である宥和政策によるものである。宥和政策とは侵略者に対して少しの犠牲や一定の譲歩によって相手を宥めることができ平和的に解決できるならその方が良いという考え方である。よって宥和政策は成功したかに思われたが、ドイツはズデーデン地方に侵入し、また、スロヴァキアの独立宣言によりドイツはスロヴァキアを保護領として、チェコ・スロヴァキアを解体した。

これらのドイツの勝手な行動に対してバーミンガム演説でチェンバレンはドイツを強く批判しまた、ポーランドを脅かすようなことがあれば軍事行動も辞さないとした。宥和政策修正の兆し

<ポーランド>

ヴェルサイユ条約によりドイツの領土にポーランド回廊が設定され、ダンツィヒという港町がポーランドの領土にされた。この地はドイツにとって重要な場所であったためドイツは狙った。

ヒトラーはポーランドとの不可侵条約・英独海軍協定を破棄した。

イギリスはポーランドと安全保障を結ぶ。

そして、ドイツは鋼鉄条約をイタリアと結ぶ。これはドイツ・イタリアが軍事援助・事前協議を相互に行うこととした。

さらに突然、独ソ不可侵条約を結ぶ。これに各国は衝撃を受けた。

そして、ドイツはポーランド戦に進もうとしたが、前日にイタリアが協力する気がないことを知る。英独交渉により開戦は延期された。ドイツはポーランド戦は電撃戦でないとダメだと思っていた。これはイギリスが参戦すると上手くいかないから。そして1939年9月1日ドイツ軍は宣戦布告なしにポーランドに侵攻。イギリス参戦